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2024年03月11日

待ちわびる春・・。


本日、3月11日はあの東日本大震災から丸13年の春を迎えた・・。

奇しくも先週末は第34回名護市福祉まつりが開催されたのだが、
ちょうど13年前の3月11日・・。翌日に開催を控えた「名護市福祉まつり」の
準備の真っ最中、東日本で大地震が発生し日本列島及び沖縄地方沿岸部に
津波警報が発令・・。市内各所の防災無線を通じサイレンが鳴り響いた・・。

「大変なことになっているよ~。」 テレビ画面に釘付けの一人の職員が叫ぶ。
そのテレビの画面に映っていたのは大きな津波で次々と飲み込まれる
街々の光景・・。テレビに映し出された映像は今起こっている現実のもとは思えず、
まるでSF映画のワンシーンのようであったと記憶している・・。

そんな映し出された光景に準備する手が自然と止まり、固唾を飲んで見守る。
「・・まつりはどうなるのだろう・・。」 一瞬、業務的なことが頭を過ぎった・・。
「中止にしなければならないだろう。」 実行委員長が静かに口を開く。

そうだ・・。未曾有の大震災、多くの犠牲者と行方不明者が出ている中、
華やかにまつりを開催している場合じゃない・・。判断に時間を要しなかった。









そして大震災から4ヶ月後、復興支援の一員として被災地の福島県に赴いた。
傷跡がまだまだ深く残る被災地は復興への目処がまったく見通せない状況。
「・・果たして復興することができるのであろうか?」 被災地を目の当たりにして、
絶望的にも似た思いが浮かぶ。どうすればいいのか希望さえ見出せない。

それほど被災地はこの世のものとは思えない悲惨な状況を映し出していた。

被災地での任務は方々から押し寄せる災害ボランティアの後方支援が主。
ボランティアが支援したいことと依頼したいことのマッチング、被害状況の調査、
そして全国各地から送られてきた膨大な支援物資の整理と配給業務などなど・・。
時には、ボランティア間のトラブルや地域住民との揉め事の仲裁・・。

そんな中、13年経っても未だ忘れられないことがある・・。
福島県小名浜港で老夫婦が営む鮮魚店が津波に襲われ、一階部分の店舗が壊滅。
商品の鮮魚が散乱し、また夏の7月ということもあって異臭を放つ過酷な状況。

そこに他県から駆けつけたボランティアと一緒に片付けに入ったのだが、
壊滅した店舗に散乱している被災ゴミの中に家族写真が混ざっていた。
異臭を放つ鮮魚と一緒にボランティアがゴミ袋に詰めた時のこと・・。
その被災ゴミの中に混じっていた家族の思い出をおばあちゃんが見つけ、
「それは捨てないで。」 ゴミ袋をひっくり返すと作業していたボランティアが激怒。
そこへ地元のボランティアが割って入り、取っ組み合いの大喧嘩になってしまう。

ちょうどその現場にいた自分が仲裁に入るもお互いの感情は収まらない。
三つどもえの押し問答の中、腐敗している鮮魚で足元が取られ、三者転倒する始末。
どうにか揉め事を収め、腐敗臭のする自分に「お風呂でも・・。」 おじいちゃん。

「大震災で大打撃を受けたのは町だけじゃなく、人々の心まで・・。」と、
自宅二階の風呂場でシャワーを浴びながら無性に悲しくなった記憶が今も蘇る。


あれから13年・・。次第に東日本は少しずつではあるが復興の兆しも見え、
元気を取り戻し始めている・・。しかしながら原発事故の爪痕はまだまだ深く残り、
行方不明者も多数存在することも悲しい事実・・。未だ大きな試練を抱える。

このような幾多の災害や試練に直面し、微力ながら携わってきた中にあって、
困難、過酷な状況に遭遇したとき、我々は何を最も大切にすべきかを学んできた。
そして、それは必ずしも困難、過酷な状況に置かれた時だけじゃなく、
普段の生活の中から備えておかなければならないものだと痛感するのである・・。

そうだ・・。次の困難や過酷な状況を迎えた時のため、
いつまでも風化せず、教訓として心に刻み込んでおく必要があるのだ。

13年目を迎えた春・・。





本当の春を迎えるまで、我々はあの13年前の記憶をつなぐ責務がある。



  


Posted by UMUサン at 22:15Comments(0)