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2017年03月11日

6年目の忘春・・。


今日は3月11日・・。あの東日本大震災から6年目の春を迎える・・。


6年目の忘春・・。


奇しくも今年で第30回目を迎える福祉まつりと相重なる・・。
6年前の3月11日・・。ちょうど明日に開催を控え、まつり準備も佳境に入ったその日。
「東日本を中心に大地震が発生し、日本列島及び沖縄地方沿岸部に津波警報が発令された。」
そのようなことを伝える名護市の防災無線が大きく鳴り響いた。

「大変なことになっているよ~!」 一人の職員が叫ぶ。そのテレビの画面に映っていたのは、
大きな津波で次々と飲み込まれていく街々の光景・・。まるで映画のワンシーンのようである。
テレビに映し出された映像は、現実のことのように思えず、現実離れに似たものを感じた・・。

目の前に映し出された光景に、準備する手が自然と止まり、固唾を飲んで見守る。
「明日からのまつりはどうなるのだろう・・。」 一瞬、業務的なことが頭を過ぎり、会場を見渡す。
「明日からのまつりは中止にしないといけないだろう。」 実行委員長が静かに口を開く。

このような未曾有の大震災、多くの犠牲者と行方不明者が出ている中、
とてもじゃないが華やかにまつりをしている場合じゃない・・。認識に時間を要しなかった。


それから4ヶ月後・・。復興支援の一員として被災地の福島県に赴いた。
大震災の傷跡がまだまだ深く残る被災地は、復興への目処がまった見通せない状況。
「・・果たして復興することができるのであろうか・・。」 被災地を目の当たりにして率直な思い。

それほど被災地は、この世のものとは思えない悲惨な佇まいを醸し出していたのである。

被災地での任務は、方々から押し寄せる災害ボランティアの後方支援が主。
ボランティアがお手伝いしたいこととお願いしたいことのマッチング、被害状況の調査、
そして全国各地から送られてきた膨大な支援物資の整理と配給業務などなど・・。
時には、ボランティア間のトラブルや地域住民との揉め事の仲裁・・。

そう言えば、こんなこともあった・・。
小名浜港の近くで老夫婦が営む鮮魚店が津波に流され、一階部分の店舗が壊滅。
商品となる鮮魚が散乱し、7月ということもあって異臭を放っている・・。過酷な現場だ。

そこで片づけのボランティアが入ったのだが、被災ゴミの中に家族の写真が混ざっていた。
異臭を放つ鮮魚と一緒にボランティアがゴミ袋に詰めた時、その家のあばあちゃんが
「それは捨てないで・・。」とゴミ袋をひっくり返すと、作業していたボランティアが激怒。
そこへ地元のボランティアが割って入り、取っ組み合いの大喧嘩になってしまった。

ちょうど自分もいたため、仲裁に入るもお互いの感情は収まらない。
三つどもえの押し問答で、腐敗している鮮魚で足元が取られ、転倒する始末。
どうにか揉め事を収め、腐敗臭のする自分に「お風呂でも・・。」とおじいちゃんが声をかける。

「大震災で大打撃を受けたのは町だけじゃなく、人々の心までそうなってしまったのか・・。」と、
二階自宅の風呂場を借り、シャワーを浴びながら無性に悲しくなったという記憶が蘇る。


あれから6年・・。
次第に東日本は少しずつではあるが、復興の兆しも見え、元気を取り戻し始めている。
しかしながら、原発事故の爪痕はまだまだ深く残り、未だに大きな試練を抱えたままである。
さらにはここに来て、福島から避難してきた子供らのいじめの問題も浮き彫りとなるなど、
復興するのは被災地だけじゃなく、被災者の方が深刻なのだと改めて思うのである・・。

そして去年の4月には熊本大地震が記憶に新しい・・。
東日本同様に甚大な被害を受け、今なお日常が取り戻せない現実がある。

東日本であれ、熊本であれ、微力ながら携わってきた中にあって、
困難、過酷な状況に遭遇したとき、我々は何を最も大切にすべきかを学んできた。
そして、それは必ずしも困難、過酷な状況に置かれた時だけじゃなく、
平時から熟成しておかなければならないものだと痛感するのである・・。

そうだ・・。次の困難で過酷な状況を迎えた時のため、
いつもでも風化せず、教訓として心に刻み込んでおく必要があるのだ。


6年目の忘春・・。


6年目となる忘春・・。忘れられぬ春となるのか、それとも忘れ去られた春になるのか・・。





Posted by UMUサン at 14:46│Comments(0)
 
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